2019年9月29日日曜日

正しいことを言われると、、、正論と正解

「正しいことを言われると言い返せないのよ…」
なるほどそういうのもあるのか……
妻に言い返されてしばし考え込む。


私は弁が立つように思われることもあるが、論戦が苦手だ。口喧嘩はさらに苦手だ。
こういうときに思わず考え込んでしまうからと思っている。
そもそも論戦も口喧嘩も好きでない、というのもある。
負かすことが目的の論戦は暴力よりも卑しく、暴力よりも遺恨をのこすことが多いと思っている。

論破することに執着して勝ち名乗りを上げられても、なにやら人格上の問題を感じざるを得ない。
殺人事件でも、執拗な暴力の痕があれば、加害者には常軌を逸した精神性を想わされる。
破壊に対する極端な執着は、暴力衝動も論破衝動も同じ根を持つことがほとんどであろう。
しかしながら執拗な口撃というのは、暴力にくらべてタガが外れやすいようだ。
現代は暴力への抑制が効きすぎているのだろう。口撃がそのはけ口になってしまったように見える。

ネット上、メディア上の言いたい放題を散見しながら、ふとそんなことを思う。
正論であれば限度を超えて行使してもよいと思っているように見える。
あおり運転を非難する声なら、いくら煽ってもいいと考えるのだろうか。
はじめは小さな声であろうが、弱者が強者に変わる瞬間を知らないのは罪なことだ。


子どもと大人が相撲を取る。
大人が勝つのはかんたんだ。
しかしそれでは面白くない。
たがいの力が拮抗するように取り組む。
拮抗させるのは大人の役目だ。
大人は子どものあの手この手を引き出し、うまいこと受けながら拮抗状態を保つ。
そうやって釣り合うところで勝負していると、お互いに得るものがある。
釣り合いをとるのはかんたんなようで難しい。
大人は応じる技量と許容範囲を広げるにはいい訓練だと思う。

勝つことしか頭にない大人は拮抗状態をつくれない。
勝つことしか頭にない子どもは、勝てばいいんだ、とばかりに突然つねったりする。
それがゼッタイだめとは思わないが、ちょうどよくぶつかり合うことを知らずに大きくなってほしくない。
いつもそう願う。

相手と釣り合うところが分からないと、他人となにかを生み出すことができない。
なにも生み出さないような争いしかできないから、どうしてもすさんでくる。
そんなふうに大きくなってほしくない、そう願う。

子どもを虐待する親がしつけと主張する。
どこまでがしつけでどこからが虐待なのだろう。
それは結局、ぶつかり合いが成立しているのか、破綻しているのか、そこにかかっている。
しつけの内容よりも、押し合い引き合いが保たれていることが重要だ。
力のある子どもであれば、かなりのことにも応じてくる。
力のない子どもであれば、わずかな力でやり取りする。
破綻しないギリギリに迫るには誠実さと真剣さがもとめられる。

非常に正しいことを教えている親。
その親子の情景がどうにも空虚に見えることがある。
親と子の間に押し合い引き合いがないからだ。
正しければいいというものではない。
出るとこまで出ないと人と人の関係は成立しない。
実感のない教育は人を空虚にしてしまう。


子どもの頃、よくプロレスを観ていた。
その頃は分からなかったが、プロレスというのはたがいの力の拮抗状態を保ちながら、ときどき破綻させるところに面白さがある。
その押し引きを観客の緊張感や期待とともに進行させる、そこにレスラーの技量がある。
真剣勝負うんぬんにこだわって観ていても、プロレスの面白さは分からない。
プロレスは弱ければ論外だが、下手もまた論外だ。

議論の場も同じであろう。
話し合いであるのなら、勝てば官軍というのは甘い考えだと思う。
無闇な勝ちは、次の火種になるだけというのは誰もが知るところだ。
たがいが拮抗状態に臨み、その瞬間を充たさないと先には進めない。
先を見据えた場であるなら、拮抗する時間を経て、これからを生み出す流れにもっていかないといけない。
少なくともその努力がないと話し合いとはならない。非常に体力のいることだ。


話は少し飛ぶが、ライオンは百獣の王でもなんでもない。
象にも牛にもよく負ける。
人間は不思議なもので、無敵という究極を見たいと願う。
絶滅した動物にも無敵を願う。絶滅しているから尚更というのもある。
ティラノサウルスが腐肉を漁っていた、などという言説は許せない、という人も多い。
そういう願望で学説が誘導されたりもする。
科学といえど、人間の欲望願望はつきまとう。

夢を見たいところではあるが、残念ながら自然界では無敵の動物は生き残れない。
これは自明の理であり、現実だ。
仮りにいたとしたなら、そいつは全てを狩りつくしてしまうだろう。
繁栄しすぎて飢えて絶滅するしかない。もしくは同族間で争う道しか残されない。
ヒトの現状はおおむねここにあたる。

ライオンが生きているのは、周囲を壊滅させない程度に強かったからにすぎない。
生存環境内で一定レベルの強さを許されているが、最大限には許されなかったから生きてこられた、というわけだ。

人間は一方的で執拗な攻撃をする。限度を超えた勝ちを積極的にひろおうとする。
チンパンジーもそうだ。

人間が極端な力をもとめるのは自然なことと思っているが、
それをどのくらい使うのかは、これまた人間の知恵として大切なことだ。
そう信じる以外、人間の道はない。
勝ち負けゼロが自然の摂理、これは曲げようがない。


冒頭の妻とのやり取りはもう10年以上も前になる。
なにでもめたのかは思い出せない。
しかし妻のセリフだけたまに思い出してしまうので、なんとなく戒めとして機能している。

適度というのは難しいものですね。
私にとってもいつも課題です。

2019年8月18日日曜日

暑さとは、、、

人間は寒さに対しては敏感だが、暑さに対しては不思議なほど鈍感なところがある。
寒さの限度には対処しようとするが、暑さの限度には対処しないことが多い。だから熱中症が減らないのだ。

一日中エアコンのきいた部屋にいるからといって安全ではない。温度設定が高い、あるいは日の射すところにいると、熱中症になってしまうことがある。
ほとんど動かない老人や、寝たきりの病人がいる家は気をつけなくてはいけない。頭、顔、掌を触って、いつもより熱くなっていたら熱中症の入り口を疑う。
濡れたタオルで顔や首を拭く。団扇であおぐ。あおぐところは顔、頭、脇、鼠径部。口の中も有効。熱中症の入り口であれば、このくらいで足りる。

喉が渇くからといって甘いジュースを沢山飲むと、血糖値が上がりすぎて危ないこともある。症状が熱中症に似てるのも注意が必要。熱中症の中には、隠れ高血糖が潜んでる気がする。
汗をかいただけの状態、肉体疲労をともなわない状態であれば、水と塩で十分だし、安全。量の調整も感覚で分かる。


ネイティブアメリカンのグランドファーザー。
暑い中平然と過ごしているのを見た婦人が
「暑さをものともしないのですね」と話しかけると
「これは本物ですから」と答えたそうだ。

グランドファーザーは人生の大半を真理探求の旅に過ごした。
砂漠で過ごす中で“暑さ”を。北極圏で過ごす中で“寒さ”を知った。

私にはとても真似出来ないが、誰にでも自分の知る“暑さ”はあると思う。
自分の知ってることを見つめ直すくらいならできると思う。

暑ければ動きは鈍くなり、頭の働きは低下する。酒を飲んだときのように、計算能力や物事を思い出す能力が低下する。
100メートル先がいつもより遠く感じ、知らないうちに口が開いてくる。吐く息に熱さを感じ、音を遠く感じる。周囲の歩行者や自動車のスピード感があやふやになってくる。

“暑さ”はみな経験していることなので、暑い時の自分の状態を推し量るよう努めれば、今どのくらい暑い状態なのかを知ることができる。漫然と暑さを見過ごすよりも、知ることに向かってほしい。


暑くてぼーっとしてきたときは、目を大きく見開いて、鼻からゆっくり長く息を吸い、口から吐く。
こうすると頭が少しクールダウンする。

生理学上の知見では、人間においては脳へ行く血液を冷やす構造が見つかっていない。大きな脳を持つのに、血液の20%を使ってしまうのに、脳に何の対策もないのは奇異に感ずる。おそらく何かあるのだと疑っている。

生理学的には不明でも対処したい。
人間は呼吸を自在に操る唯一の生き物だ。呼吸で対処するのが人間らしく、手軽でいい。なにしろいつでもできる。持ち物もいらない。人間の偉大な能力だ。
生理機構にアプローチするのは通常困難だが、呼吸だけは顕在意識で操作できる。



まだしばらく暑いようですね。
私は小袋に入った塩をいろんな人に配っております。
水は調達できても塩は意外と難しいからです。
お守り代わりに、、、と言って渡してますが、沢山汗をかいたときは試しに舐めてみて下さい。
塩の美味しさを感じると、体の要求が理解できます。
そういう実感の積み重ねが大切と思います。



ペットボトル症候群 - Wikipedia
グランドファーザー -Amazon

人間はどこまで耐えられるのか -Amazon
暑さについて生理学的にも知りたい人は上記の本。
「第3章 どのくらいの暑さに耐えられるのか」を読んで下さい。
実感できる生理学の本として秀逸です。

Life at the Extremes -Amazon
 上記の原著、表紙はなんと日本の海女さん。クリオネのように美しい。外人がこれを選んだ意気に応えて装丁買いしたくなる。買ってませんが。。。

2019年8月14日水曜日

【本が好き】 断章 『リハビリの夜』 熊谷晋一郎

小児脳性麻痺の著者が自身の身体を通して、運動修得を分析。
当事者研究と名付けられた研究スタイルを、いかんなく発揮した一冊。
運動の修得あるいは是正、リハビリ、メンタリティの確立、といったことに興味のある人はご一読を奨める。

「脳性まひ」だとか「障害」という言葉を使った説明は、なんだかわかったような気にさせる力を持っているが、体験としての内実が伝わっているわけではない。もっと、私が体験していることをありありと再現してくれるような、そして読者がそれを読んだときに、うっすらとでも転倒する私を追体験してもらえるような、そんな説明が欲しいのだ。つまり、あなたを道連れに転倒したいのである。
p.22 より引用

運動を理解するには、内実を追体験、、、
こういう視点をはっきり持っている人はなかなかいないと思う。

文体が内容に応じて変幻自在。ときに文学的で、ときに科学的。その器用さに、驚かされる。そういう意味でも稀有なノンフィクション。
全体としては非常に分析的に書かれているので、概念切り分け、用語理解をしながらでないと読めない。
哲学的記述が苦手な人には面倒かもしれない。

“規範的”という用語が頻出する。
健常者を基準にした運動などといった場合に使われる。
その運動に体を合わせられない、向かわせられない麻痺という体。
そこにギャップがあるにも関わらず、無理に合わせようとしていた自分自身と周囲の人間。
その心模様と葛藤、行き詰まっていく人間模様まで描いている。

1977年生まれの著者の幼少期は、規範的な動きを修得させることが、小児麻痺リハビリの鉄則だった。
修得出来なさは、そのまま本人と家族の苦悩となり、リハビリ施術者のイラ立ちにもなった。

著者自身が肩をすくめるポーズがある。
規範的な肩をすくめるポーズをイメージしている。
しかしすくめているようには見えない。
それは著者自身も分かっている。
そして規範的な肩をすくめるポーズのイラストと対比させている。
非常に分かりやすい解説だ。

2019年8月7日水曜日

山梨紀行 その2 薮内正幸美術館

薮内正幸の名前は知らなくとも、その動物画を見たことがない人はいないでしょう。
絵本から専門書まで幅広く活躍された方です。

薮内正幸 at DuckDuckGo

薮内さんの絵は、学問的な正確さを持ちながら、生命力を感じさせるところがすごいのです。
活躍の舞台が多岐に及ぶのはそうしたところからもきてるのでしょう。


さて美術館。
見覚えのある「動物の親子」の作品がだだだっと並んでおりました。
母親が子どもをくわえていたり、子どもが後ろをついていったり、、、
母と子の情景に、人間と変わらないものを感じます。

おぉ!と思ったのは、薮内氏が中学時代に模写した鳥類図鑑。
しっかりとした基礎力のあるイラストでした。

薮内氏の魅力のひとつとして、叩き上げ感と縁に導かれた人生があります。
膨大な作品数を誇りますが、絵を専門に学ばれたことなしに業界に入り、周囲の人々の支持と応援を受けながら大成された方なのです。
そんな薮内氏の黎明期を模写から感じ、しばし感慨にふけりました。


業界入り。
その始まりは13歳の頃にはじまる今泉吉典との文通にある。
(今泉吉典は有名な動物学者一族の初代)
薮内はイラスト入りの手紙を今泉に送り、今泉はそのイラストが着実に上達していることを見逃せなかった。
そんな折、福音館編集長が無名の動物画の描き手を探しており、薮内の高校卒業時期に重なったことから、今泉の推薦を受け福音館入りした。
薮内は研究者を望んでいたようであるが、編集者の熱心な説得に最後は応じたかたちとなった。
福音館に入り、最初の一年は今泉が館長を務める国立科学博物館に日参し、骨と剥製のデッサンに明け暮れた。。。


美術館には、今泉氏が薮内氏を福音館に誘う手紙も展示されています。
人生の分岐点を思わざるをえません。

私はつねづね思うのですが、興味のあること、好きなことがあるのなら、とりあえずその方向に行動し、生きればいいと思います。縁があれば色々とつながっていくものでしょう。それが充実した、その人の人生と思います。
達成度だけにとらわれると、誰の人生を生きてるのか分からなくなってしまいます。
薮内正幸の人生に触れて、あらためてそんなことを思いました。


面白い展示物、、、
ウラヤブ通信なるものがありました。
薮内氏が原稿とともにシャレの利いたイラストを編集者に渡していたそうです。
身内だけの楽しみとして、“ウラヤブ通信”と名付けられていたようです。
グッズ売り場に、ポストカード化して売られてました。ちょっと迷いましたが、買ってません。

グッズ売り場は個人の美術館としてはかなり充実してます。
点数がすごいのです。ファンの方はぜひ足を運んで見て下さい。

【参考】
薮内正幸美術館
WikiPedia 薮内正幸
WikiPedia 今泉吉典


追記、、、

美術館を出て、国道20号を南下。
数キロ行くと、左側に「ドライブインやまびこ」
一瞬廃屋にも見えましたが、入り口に営業中の看板。
そこでお昼ご飯。
ふつうに作ったふつうのものが食べたい方にはおすすめします。
アジフライとお味噌汁が美味しかったです。
うどんは味が濃いめですが、夏にはちょうどいいですね。

食事処が豊富にある地域ではないので、遠方からくる人はある程度候補を見つけておくのがベターです。

2019年8月2日金曜日

信玄堤、行ってきた。いにしえの治水事業。

古(いにしえ)の治水技術にそこはかとなく惹かれるものがあり、親戚を訪ねた折に立ち寄ってきました。

【ざっくり解説】
山梨県甲斐市竜王町。釜無川と御勅使川の合流地点。
古代から氾濫原であり、定住には適さない。
武田信玄(1521-1573)の指揮で治水事業が行われた。

いくつかの治水技術が併用された。
・川の流れを変えて勢いを弱めるー将棋頭
・川の流れを岩にぶつけ、勢いを弱めるー高岩
・川岸から少し飛び出すように丸太を三角錘に組み、勢いを弱めるー聖牛
・堤防に切れ目をつけて、水を逃がすー信玄堤(霞堤)
など


信玄堤に惹かれたのは、洪水を起こさないことよりも、洪水をある程度許し、導くことで肥沃な土壌を確保する点です。
化学肥料生産技術が発達して、川が運ぶ肥沃な土壌などというものは過去のものに感じるわけですが、化学肥料に負う割合が増えすぎて、野菜の栄養価は確実に下がってきているという現実があります。
かといって洪水は怖いですから、人間の営みと折り合いのつくところはないのだろうか?とたまに考えておりました。

ちょうど水道事業にたずさわっている方が整体に来られていたので、洪水を許す治水設計は可能か?などと話しておりました。それから数カ月、新聞で霞堤(かすみてい)の存在を知り、信玄堤(しんげんづつみ)という名で山梨に現存することを知りました。
感激でした。今も機能しているのですから。

ご無沙汰しているイトコに会いたくもあり、足を運んだしだいです。
さて、古の知恵を感じられるでしょうか、、、

駐車場から土手に上がり、周囲を見渡す。
川の流れを感じ、水の暴れ方を想う。
流れの治め方が浮かんでくるだろうか、、、

古の人々の感性ってどんなものなのか。
ぼーっと突っ立って眺めたり、散策してみたり、、
その場所に、なにかすこし、馴染んでいけるだろうか、、
と試みました。

結論から言うと、うまく行かず。
朝の9時からたくさんの蚊に刺されて終わりました。
家族と一緒だったこともあり、滞在時間は30分程度。
流域全体を俯瞰的に散策すると、おそらく3時間はかかるでしょう。
また機会があったら、散策してみます。

治水技術を学ぶだけであればネットで足りるのですが、現地まで行く機会があったのですこし深いところまで学べるかな、などと考えてしまいます。


整体の技術もそうなのですが、身になるように学ぶのが難関です。

こうすれば、ああなる、ということが最初は刺激的なのですが、
それだけを繰り返していても、一向に身につく感触はやってきません。
要素をあつめても総体にはたどり着かないわけです。

それでも多くの人の学習、、、これはなにも整体に限ったことではないですが、、、
こうすれば、ああなる、を覚えることで正解にしていきます。
才能のある人は最初からそんなふうに学んでいないだろう、
と凡人の私ですが思うのです。

治水技術も、こうすれば、ああなる、を見て楽しみましたが、
この地で水を治めようとした人は、何をどう見たのだろう?どう感じたのだろう?
というところをちょっと感じてみたいですね。
あいにくよく分かりませんでしたが、ひとまず今回は満たされました。
今後、川を見て、見えることが増えてきたなら成果あり、ということになります。


【観光案内として】
信玄堤公園に無料駐車場があります。
信玄堤公園トイレのあるところです。
あずま屋もあります。

【参考サイト】
過去に学ぶ~甲府盆地の治水システム(スマートフォン版)|JFS ジャパン・フォー・サステナビリティ
甲府市/甲府にもあった「信玄堤」
信玄堤 - Wikipedia
霞堤 - Wikipedia

2019年7月19日金曜日

【本が好き】流山市 木の図書館へ

毎週図書館に行きます。
十年来通っています。

今回はちょっとヘビーです。
相互(県内取り寄せ)がいっぺんに六冊来まして、ありがたいやらしんどいやら。
ほとんどの本は一週間で返しますが、今回は二日で一冊のペースが増えそう。
ここにある本を全部知ってる人はさすがにいないはずですが、
全ての本が心の琴線に引っかかる人もまれでしょう。いるとしたらかなり変わり者ですね。

どうして借りたのか、あるいは読む前の思い入れ、、、

『私は見た!昭和の超怪物』黒崎健時
とある人が教えてくれました。
“怪力法”を創始した若木竹丸と対談してるとのこと。
ふつうの人から見れば黒崎健時も超怪物なので、読む前からヒリヒリします。
表紙は黒崎健時、、、『必死の力・必死の心』を踏襲したんでしょうか。『必死の力・必死の心』は高校生のときに五回、成人してからも五回は読みました。読むと生理的限界を超えたくなる本。そういう本が減りました。

『東洋の神秘 〜ザ・グレート・カブキ自伝』ザ・グレート・カブキ
名著です。
発売当時、本屋で何度も立ち読みしたけれど、結局買ってません。ちょっと申し訳なく思います。
「プロレスは立ち位置なんだ」という教訓はそのまま人生訓として読めます。
題材がプロレスでなければ、ベストセラーになってもおかしくないほど箴言に満ちた本。
カブキさんは現在居酒屋を営まれています。
お店は飯田橋なので、神楽坂で整体をやってる頃に何度も行こうと思ったのですが、結局行かないまま春日に移ってしまいました。
しかしなんとビックリ、春日に移転されてました。今度行こうと思います。

『魂の錬金術 エリック・ホッファー 〜全アフォリズム集〜』
ちょっと前にエリック・ホッファー全部読もう!と思い立って、これが最後の一冊。
考え抜いた人、鍛えられた思考力、人間の、人間らしい力を感じさせる人です。
日本で、ホッファーが文化人の中でホットな存在になったのはいつなのだろう?
知ったのが数年前なので、そのあたりリアルタイムな感触はないのですが、今読んでも色褪せるものはないですね。
肉体労働者も当たり前に思索するわけですが、老齢まで肉体労働にこだわった点で稀有な人。憧れますね。

『作業歌 労働とリズム』カール・ビュヒャー
この題材で書かれてる本はおそらくないと思います。
何年か前にいろいろ調べたのですが、この本くらいしか見当たりません。
あえて言えば小泉文夫。民族の歌を蒐集して仕事や作業との関係を論じております。
1970年発行。県内に一冊だけありました。借りたのは私で何人目だろう?
除籍されて廃棄になったらどうしよう、、、心配になります。

『リハビリの夜』熊谷晋一郎
「ケアをひらく」シリーズの一冊です。このシリーズは秀作が期待できます。
ラインナップに読みたいものがたくさんあるのですが、まだ数冊しか読んでません。

『なぜシマウマは胃潰瘍にならないか 〜ストレスと上手につきあう方法〜』R・M・サポルスキー
「シュプリンガー・フェアラーク東京」というすごく長い出版社名。
シマウマの生態が書かれていることを期待している。
それはおそらくないとは思っているけれど、シマウマについて少しくらい触れてないだろうか、と期待がある。
ウマについて書かれたものは多いのですが、シマウマはありません。シマウマは気性が荒く、家畜化できなかったウマです。人間との関わり、その歴史など、知りたいと思っています。

『新選組の哲学』福田定良
自分のコトバさがしをするということは、自分の生活体験から離れずに考えられるようなコトバを見つけるということです。
朝日新聞の「折々のことば」にありました。引用元は『堅気の哲学』福田定良、だそうです。どんな人物なのか気になり、ちょっと前に新選組の出てくる本を読んだので、キーワードが都合二つとなり借りた次第。
この本だけは相互ではないので、読めなければ延長するつもり。

以上

2019年7月10日水曜日

樹木希林 オフィーリア 存在感

樹木希林さんの本が売れてるようですね。
死して尚、というよりも、
いなくなったことが存在感を倍増させている、という感があります。

絵画「オフィーリア」をモチーフにしたあの装丁のインパクトはすごいですね。

誰が考えたのだろう、と感嘆せざるをえません。
このモチーフはCDジャケットなど、数え切れないほど利用されているので、どこかで見たことがあると思われた人も多いでしょう。
しかしこれほどインパクトある形で世に出たものはないのでは。

元ネタの絵画「オフィーリア」は、ミレイ作。川に溺れて死にゆくオフィーリア(シェークスピアの「ハムレット」)を描いたものだ。清流に浮かぶ美しく、生きてるような死んでるようなオフィーリアと、周囲に生気あふれる草花、崩れ落ちたかのような樹木から半分枯れたような枝、生と死の狭間を浮かび上がらせている作品。
装丁もほぼ同じですね。
出版された頃の希林さんの存在感を表現されたのでしょう。


死んだ人間の存在感が大きくなるのは、おそらく人間だけと思う。
“存在感”とは概念上のものであり、物理的存在とは別個の抽象概念であるからだ。
こうした抽象概念は人間においてかなり自由に創造されるものになった、と私は思っている。
ゾウなども仲間の死を悼むようだが、死んだ仲間の存在感が増していくことはないように思える。

われわれ人間はそもそも、生きている時でも個々の存在感に敏感であり創造的だ。
存在の大きさ、濃さ、特別さ、存在感が薄いこと自体が存在感として膨れ上がることさえある。
なにゆえにこれほど敏感かというと、人間は個体差が大きいからだと思う。
外見はもとより、内面の個体差も大きい。人間は個性抜きには語れない。

個人が一生かかって確立したものに、他人は憧れを抱いたり、嫌悪を抱いたりする。
死んだ人間への敬意が増すこともあるし、
死んだ人間への嫌悪が増すこともある。
こと人間に限って言えば、死んだら全部お終い、というものでもない。

希林さんが話題になっているのは、役者としての功績もあるが、その人間性によるものが多いようだ。
「こんな人がいた」「こんな人だった」
それぞれがそれぞれに、そうした存在感を自らの中に描こうとする。


魂というものがあるのかどうか分からないが、人間の存在感というものは、亡くなったあとも生きてる人たちの中で生き続ける。生き続け、なにかしら受け継がれる。受け継いだ人の中で発酵してきたり、人を成熟に導いてくれたりする。
人間の“命の重さ”とは、そういうところにあると私はつねに思っているが、いかがだろうか。

ある人が生まれ、生き、亡くなる。
その道程で創られた人間性のようなもの、
その道程で創られた存在感、
その道程で周囲に与えたもの、
そういうものを感じたとき、“命の重さ”を誰しも思わされるのではないでしょうか。


老醜をさらしたり、目一杯生きて「あとは野となれ、山となれ」と潔く散ったり。
生き様、死に様はさまざま。

それがどんな有り様でも、必ず後世に影響を及ぼす。
それなりによいものを遺す努力は必要であろう。
誰かが生きるとは、どこかの誰かA、B、Cという不特定ではない。
誰かが死ぬのも同様だ。
その人という個性があるのなら、それ相応の責任があると思う。

世の中の仕組み上、社会に及ぼす影響は大小ある。
政治家であるとか、成功者であるとか、有名人であれば、多くの人々の中に遺るが、
それがどのくらいの強さ、濃さで遺るかは、名声とは別のところにある。

グローバル社会であり、情報の流通はリアルタイムで世界に伝えることもできる。
名のある人の情報はかつてないほどあふれかえる。
ほとんどの人、一般の人は、これまで以上にその他大勢になっていく。

しかしながら、とるに足らない小さな存在と思う必要はない。
人が生き、その人がいる、そのことが誰かの中で必ず生きている。
生きていないはずはないのです。

その人がその人らしく生きる、
その人という存在感を確かなものに高めていく、
それが誰にとっても大切で、人間という存在だと思うのです。

正しいことを言われると、、、正論と正解

「正しいことを言われると言い返せないのよ…」 なるほどそういうのもあるのか…… 妻に言い返されてしばし考え込む。 私は弁が立つように思われることもあるが、論戦が苦手だ。口喧嘩はさらに苦手だ。 こういうときに思わず考え込んでしまうからと思っている。 そもそも論戦も口喧嘩も好きでない...