2020年3月15日日曜日

肺を強くする方法いくつか

コロナ騒ぎを踏まえ、肺を強くする方法をいくつかご紹介します。

■肘湯、蒸しタオル。

【肘湯】
肘から先を熱いお湯につける部分浴。
46度程度。測らなくてもよい。火傷しない程度に熱いと感じる温度が目安。
時間は6分前後。
途中で差し湯を一回して冷めすぎないようにする。

肘から先を入れる場所に困ることが多いと思います。
例えば、、、
シンクに蓋をする。百均に汎用の蓋がある。合わないこともある。シンクは冷めやすいのが難点。
台所用の洗い桶を使う。ジョセフジョセフというメーカーの洗い桶が結構大きい。ドレンがついてるので、ひっくり返さなくても水を捨てれる。

【蒸しタオル】
レンジでチンでOK。
あてる時間は5分くらい。

あてる場所いくつか、、、
鎖骨の間から胸骨にかけて。
肋骨の固いところ。
肩甲骨の間。

自分で固いところが自覚できるならば、そこにあてる。
よく分からなければ、いろいろ試して呼吸が楽になる、深くなるところを探す。

★いちどきに三回までは繰り返してもよい。
★8時間程度は間隔をあける。子供は6時間
★入浴の前後4時間は効果が弱い。
★肌が赤くならないところは働きの弱いところ。



そのほか、経験則など踏まえ参考まで。

【布団を干す】
湿っぽい布団は肺に負担となります。
陽に当てることで、雑菌の繁殖をおさえます。

【洗濯物も陽に当てる】
室内の乾燥対策には部屋干しも有効ですし、私も冬はそのように指導しておりますが、陽に当てたほうが雑菌の繁殖はおさえられます。

【洗剤より石鹸】
洗濯も石鹸の方がきれいになるように思えます。ただの経験則ですが、そのように言う人も少なくはありません。
手を洗うにももちろん石鹸のほうがいいように思えます。台所の洗い物を洗剤でするのと石鹸でするのでは、手の荒れ方も違います。ただし石鹸で洗うと洗い流すのに多少の技術がいります。黒いものを洗うと流しきれないものが見えるので、それを基準にすると分かってきます。

【手の洗い過ぎは感染に弱くなる】
体の表面にはくまなく微生物が住みついてます。住みついてることで生体バリアと言えるものを成り立たせています。
手を洗ったときには、そのバリアに隙間ができます。その隙間は周囲の微生物が増えることでまたバランスを取り戻します。しかしながら頻繁に洗っていると、もとのバランスへの回復が困難になることがあります。あいたところに何が入るかによっては、かえって感染症に弱くなります。
ほどほどが大事ということです。



最後に、、、

歴史を顧みれば、人の往来は感染症の往来でもありました。
それは現代でも変わらないことです。

感染症の往来によって、大きな打撃を受けた地域もありました。
その打撃は現代とは比較にならないレベルのものが沢山ありました。

悲劇的な歴史はありましたが、現在、世界の人々が行き来出来るのは、われわれがある程度適応してきたからです。

自分で工夫できることもありますので、これを期に取り組んでみてはいかがでしょうか。

2020年3月6日金曜日

山下清の世界観 その1


『日本ぶらりぶらり』山下清 ちくま文庫 1998
『現代のことば』阪倉篤義 寿岳章子 樺島忠夫 三一新書 1960
『親と教師への子どもの講義』鈴木道太 国土社 1951
『正直じゃいけん』町田康 ハルキ文庫 2008
『山下清の世界展 図録』毎日新聞社主催 式場俊三 編集 1971

南柏で古本市が開かれていたので、いつものように立ち寄った。
本を買っても置いとくところがないのでつねづね我慢しているのだが、結局いつものように買ってしまった。

『日本ぶらりぶらり』山下清
手にとってパラッと読んで、やっぱり止めとこうと棚に戻し、三歩歩いて引き返して買ってしまった。
タイトルのとおり、日本を放浪しているときの記録。
ダラダラと続く文章がなんとも面白い。つれづれなるままに、という感じ。
 夕方から下をみるとネオンが、黄、赤、緑といろいろな色についてきれいだ。初めの夜はただみているだけで、とても絵にはかけなかった。そこであくる日はあかるいうちからでかけていって、日のくれないうちにざっと景色をかいて、夜になったら夜の景色にしようと思ったのだが夜になってみると、やっぱりきれいでみているばかりでなかなか描けない。
 横浜のはとばもかきにいったが、うまくいかなかったが、長崎の港はもっとこみいっていてすぐにはかけない。ぼくは景色をかくのはらくだが家や建ものは骨がおれる。長崎は小さくても町の家や道を正直にかこうとすると何カ月もかかるだろう。
 十五夜で月がでてきれいな夜だ、ぼくはへやの手すりにつかまって外ばかりみていて絵はさっぱりはかどらない。小さな虫のきらいなぼくは、あかりをたよって沢山とんでくる虫にじゃまされてますます絵がすすまないのでした。
p30 「長崎の夜景はかけぬ」
山下清(1922-1971)の素の文章は、句読点なしで延々と続くものらしい。
この本の文章は、山下清を物心ともに支えた式場隆三郎(1898-1965)が、文意を損なわないように気を遣って校正したとのこと。内容的には信頼できるが、やはり生の文章も気になってくる。
八幡學園で長く居るつもりで居たんだけれ共最つといひ所が有ると思つてよくを出してあした出かけて行かうと思つて日記がすんでから出かける支度をして何日もより早く起きて皆に見つから無い用に出かけて行くので出かけて行つた日は五月九日の日でした電車賃は少しも持つて居無いので方々の家で五十錢から一圓位貰つて其れを澤山ためて電車賃にするので朝飯はよその家で貰つて食べて途中で巡さにしらべられて八幡學園から逃げて來たと言うともし巡さが學園へつれて行かれるかと思つて家からことはつて來たので田舎へ仕事さがしに來たんですと言つたら巡さが若いくせに乞食をするとみつとも無いから早く仕事を見つけてまじめに働けと言はれて貰つた金を澤山たまつてから其れを電車賃にして船橋から省線電車に乗つて信濃町でおりて家へ歸つて見ると誰も居無いので置いて行く品物はおいて行つていり用な品物は持出して又家から出かけて行つて外苑前から地下鐵に乘つて淺草でおりて仕事をさがすので仕事が見つかる迄は乞食をするので乞食をする道具を買はうと思つて 
一日分の日記の半分弱を孫引き。
『現代のことば』寿岳章子ほか
※八幡学園は預けられていた施設。
※山下清の日記は旅先で書かれたものではなく、旅から帰ってから、八幡学園の課題として、寝る前に2ページを書かされていたとのこと。

上記の日記は文章としての構造は成していないが、思った順に書かれているので、意味は通りやすい。むしろ論理的な文章のほうが行ったり来たりして分かりにくいくらいだ。子どもの書く作文はだいたいこんな感じで、「〜ので」や「そして」や「〜のが」などが連続しながら本人の思惟が時系列に並んでいく。

ちょうど手元に作文を集めた本があったので読み返してみた。
二、三ヶ月前に買って処分しかけて思いとどまった本。思いとどまって正解だった。

『親と教師への子どもの講義』鈴木道太
1948年以前に集められた作文。当時の言葉で綴方。
一文が長くて文章構造が乱れているものを選んだ。
  ラジオ組立  中学・男
 僕はラジオが好きで、組立てたり、しゅう理したりするが、ラジオをしゅう理しているうち、だんだん暗くなって来たので、電気スタンドをつけて仕事をしていたが、スタンドがひくいので、よく見えない。
(以上前半部分だけ抜粋)

  かくしたグローブ  中学・男
 夕食後皆がストーブにあつまっていろいろ話をしている最中に、僕はお父さんにグローブを買ってくれと言ったら、お父さんは、それはいくら位するかといったので、僕は千四百円位だと言ったら、そばで聞いていたおじいさんが、そんなに高い物を買うより、魚でも買って食べた方がよいと言った。
(以上前半部分だけ抜粋)
ここにあげたのは文章のまずい方なのだが、これら文章のまずいものの方が情景は浮かびやすいことに気づかされる。
こうした文章は、"文章"と言うよりは"話し言葉"に近い。
おそらく本人の思考の連なりがそのまま述べられている。そのままの状態なので、過去のことであっても、思考上の現在をたどっていくため、すべてが進行形のごとく記述される。記述している「私」と昨日の出来事の中にいる「私」が、切り分けられていない。
山下清の文章は、その極端なものと言える。そして思い出す情報量がきわめて多い。


若者がよく使う「〜だしぃ」「〜するしぃ」「〜けどぉ」で延々と続く話し言葉にも、共通するものを思う。これらの語尾表現に適切な意味は無く、たんなる話の繋ぎで使われている。思ったことが順番に語られるだけであり、話を伝える「私」と語られている中にある「私」は区別されない。文脈として成立しているか否かはともかくとして、時系列なので聞きやすくて分かりやすい。
日本語としては乱れていると思うが、キャラクターと合わせて様式化してしまえば、それはそれで成立しているように見えるから不思議だ。


ここで町田康に登場してもらう。
だらだらズルズルと続く文章を、文体として成立させた小説家。
手元に町田康の本はなかったが、地元の古本屋「太平書林」に立ち寄ったらおもてのワゴンに一冊だけあった。きっと私を待っていたのだろう。
以下に引用する。
 自分が忙しいか暇かというとけっこう忙しく、なにかをやろうと思っても時間が足りずに達成できないということがままあってこんなことでは人間は駄目だ。あかん。いろいろなことが中途になったままほうぼうで欠けたりぐずぐずになったりしている。こんなことでは到底出世はおぼつかない。
 ということはどうすればよいかというと時間を作ってやりかけのことを順次終了させ、意義あるプランを立ててそれを実行していくということが大事なのだけれども、そのためには時間を作らねばならぬのだが、チャーハンや本棚なら材料があれば作ることはできるが、時間を作るなんていうことは不可能である。
 第一その材料すら判然としない。なにかエネルギーのようなものでできているのだろうか。だとしたらやはり単三とかを組みあわせて作るのかも知らんが、時間というものは世の中全体に同じくあるわけだから、いくら技術が進歩したからといって単三やそこらでは作ることはできんだろうということは容易に想像せられるのである。
『正直じゃいけん』町田康
これは一応随筆だが、小説でも同じような文体を使っている(ただし全部ではない)。

町田康の文章も、思惟を時系列に並べているのが読みやすさとなっている。思い直しているところも時系列に綴られるので、読み手が考え直さなくてすむ。話があらぬ方に跳んでいくので「あっちこっち」に行ってる印象はあるが、文章構造に悩まされることはない。読みにくいけど読みやすい、という矛盾した印象を与える特異な文体だ。
通常、小説とは書き言葉を弄するものだが、町田康はきっとまるで違うところから出発して文体を創り出している。自分が思っていることを順番通り記述しても文章にはならない、と誰もが思うものだが、町田康はあえてその体裁をとって、文体ならしめている。


そういえば去年の暮れくらいに、太平書林で山下清展の図録を買って放置していた。
あらためてめくってみたら、生の文章が写真で載っていたので、これも載せておく。一応文字にも起こした。

僕は毎日々々ふらふらして遠い所まで歩いて行ってるんぺんをして居るのは自分でもるんぺんと言う事はよく成いと言うのは知って居てるんぺんをして居るのは自分のくせか自分の病氣だからくせか病氣は急になほら無いからだんだんと其のくせをなほそうと思って居るので今年一ぱいるんぺんをして來年からるんぺんをやめ用と思って學園の先生とそうだんをしたので幾らくせでもなほそうと思へば今からでもすぐ其のくせがなほると言はれたから今度からるんぺんをするのを思ひきってやめ用と思ひます
もしるんぺんをした場合は病氣と思はれてもかまひません
昭和二十九年四月十一日   山下清
八幡學園長様
人の思考は、、、言語未満の思考はいくつもの層をなすが、言語レベルの思考は通常ひとつしか進行しない。そしてそのひとつでさえ、行きつ戻りつがあり、脈絡なく跳んだりする。いやむしろ、ひとつをなぞるからこそ、その一貫性のなさを露呈するのだろう。
山下清の文章を読んでいると、言語化される時の一本道がそのまま表されているように見える。そしてその素直さが魅力だ。


さて、、、
実はここからが本題。

山下清の絵と知的障害について、かねてから思っていたことを書こうとしたのですが、ややこしい話は敬遠されそうなので、つれづれに話を進めてしまいました。
思いのほか長くなったので、続きは次回といたします。

2020年1月13日月曜日

上肢帯の背面の使い方 〜寺地拳四朗選手に寄せて〜

最近"上肢帯の背面"の使い方についていろいろ研究しておりました。これまでも何度も研究してますが、何周か回ってまた研究しております。

そんな時にボクサー寺地拳四朗選手の試合がちょうど参考になりました。
きれいに分かりやすく使っている人はそう多くないので、大変うれしいものです。

整体の技術の基本は、集めて捉えることにありますが、集めすぎて急処が隠れてしまったり、集めようとして過度な緊張を呼んでしまったりすることがあります。そんな時はいったん気を散らさないといけませんが、その時の体の使い方や質的な感覚を見つけるために、"上肢帯の背面"を鍵に探っているところです。

お断りしておきますが、、、
"上肢帯の背面"という言葉自体には一般性がありますが、解剖学や運動医学の用語ではありません。もちろん整体用語でもありません。動作を考えるときに私の頭の中で使われてきただけです。誰も考えてないことだ、というほどオリジナリティはありませんが、知らないうちに定義が確立されているような一般的な概念でもありませんので、あくまでも私が考えている、"上肢帯の背面"に関する話です。

↓WBCライトフライ級V7防衛戦 VSペタルコリン(YouTube動画)↓



上肢帯の背面はジャブを打つときに目立って使われてるのですが、拳四朗選手は非常に明瞭に背面を使います。個人的には「世界屈指のジャブ使い」と思っています。今回もジャブを見るのが楽しみでテレビをつけたのです。そして期待以上のものを見ることが出来ました。うれしいです。

内から外へ打ち上げるような軌跡、それが上肢帯の背面を広く使った時の特徴です。
相手のガードの隙間から外へ散らしていくような軌跡が、非常に分かりやすいです。

強いジャブを打とうとすると、おもに上肢帯の腹面を使うので、軌跡は外から内へ打ち下ろすような線を描きます。
相手はどこかに閉じ込められるようになっていきますが、ガードも固く閉ざされるようになります。
このあたり整体の時に集めすぎて急処が隠れてしまう感じによく似ています。

拳四朗選手は散らしたり集めたりしながら、いいように相手をコントロールするペースを作り出していたように見えました。
KOに導いた数発のボディブローも、上肢帯の背面を使って間合いを取りながら、突然に腹面にスイッチしているように見えます。背面の使い方が上手いので、感覚的には見た目よりもかなり外に振ってから内に落ちてきてるように見えます。軽量級としてはKOが多いのも、こうしたところが利いてるように思えます。


整体は相手をKOする技術ではありませんが、集める、散らす、そして緩急という点で、非常に面白く参考になる試合でした。

補足、、、
上肢帯背面で腕を上げるのがよく分からない、という方は、

うつ伏せになって、
両手を横に広げ、
手を上下(天地方向)させてみれば、背面を使っているのがすぐに分かります。
分かったら、立位で同じ感じを探してみて下さい。

2019年12月5日木曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その6 最終回

和可菜の玄関には黒猫がいる。
神楽坂には理科大があり、そこに妻の曽祖父菱田為吉さんの木彫細工がある。
・・・・・

和可菜での整体は、井本整体福岡講座のFさんに始まり、Oさんによって立処をただされ、妻との縁まで知らされるような様相を呈しておりました。
人生の正解というのはわかりませんが、知らず知らずに縁に囲まれているこの状況を正解と感じ、感謝の念がわいてきます。

Fさんはその後も東京に来たときに和可菜を利用されておりました。
そんなある時、
「そういえば主人の実家が買った家は、昔大女優が住んでた家だって言ってた気がします…」
その家は下関。まさかそんなことが…。
「今度よく聞いておいてもらえますか?」
「帰ったら聞いておきます。」

それはそのまさかでした。
その家は和可菜の女将さんの生家であり、実姉の木暮実千代さんが育った家。女将さんは生まれる前からの約束で生まれてすぐに本家に引き取られて上京し、木暮さんは長じて上京し、妹と人生を重ねることとなりました。
思えばFさんの行動力にリードされてはじまった和可菜でした。そのFさんは実はわたしよりも先に和可菜との縁をもっていたのです。もう少しつけくわえますと、Fさんのお住いは山口県で、女将さんの生家の近く(下関市)と小野田で、親の代から整体をされております。もしかするともっともっと沢山の縁で結ばれているのかもしれません。

それにしても……、そんな偶然があるのだろうかと、不思議でなりませんでした。


そして数年…………。


2015年。和可菜での日々に終わりを告げるときがきました。
女将さんも九十を遠に過ぎ、年内閉館を知らされます。
ご年齢からすればお元気でしたが、整体を受けるために階段を昇り降りする姿に不安を覚えはじめて久しい頃でした。

さて、どうしたらよいか。
もう東京室は無理かもしれない…。
和可菜と同じモチベーションを保てるだろうか…。
和可菜への頼り根性に気づかされます。
それでも行動しないわけにはいきません。
和可菜から自立するためにも、
次をしっかり見据えなくてはなりません。

和可菜を探した頃のように、いくつかの旅館に問い合わせました。
そして交渉成立したのが、今の鳳明館です。
今度は東京大学の近く。
和可菜は理科大のそば、今度は東大のそば……。
再び菱田家に守られている気がしてきました。
(菱田唯蔵:妻の曽祖父菱田為吉の弟、東京帝国大学教授)


和可菜閉館予定を知らされてすぐのころ、日本画家さんが整体に訪れ、後々春草の話でひとしきり盛り上がることとなりました。
最後の月には小説を書く学生が訪れました。ここが和可菜だから、というのが理由のひとつだったようです。旧知の友のごとく感じられる学生で、その後よく飲みに行くことになります。
最後の二ヶ月に和可菜で整体をした、という証を二人からいただき、わたしは"おしまい"を噛み締めていました。


いよいよ本当に和可菜の時間が終わりの日。
女将さんと最後の挨拶を交わしました。
おそらくわたしが最後の常客だったと思います。最後の一、二年は訪れるたびに帰りは居間に通され、お茶をしながらしばし歓談させていただきました。
女将さんにはいくつか定番のお話があり、いつも楽しそうに話されておりました。戦争中、落ちてきた爆弾のとある場所を押さえて爆発を止めた、というお話もそのひとつでした。そんなことが本当に出来るのかどうかは知りません。不発弾が転がってきたのでしょうか。どちらでもいいのですが、女将さんの大胆さと自由さがよく表れているエピソードです。何度聞いても楽しいもので、わたしはよく誘い水を出しました。この日もそんな定番のお話のいくつかを話されておりました。

そして別れのとき、女将さんが涙を流されました。
たいへん身勝手で不謹慎ですが、わたしはそれをうれしく思ったのでした。
わたしは確かにここにいた。和可菜にいた。
女将さんもそう思って下っていたのがうれしかったのです。
なにしろここは"ホン書き旅館"。
作家先生こそが認められる場所。
そんな場所で、わたしの存在も女将さんの中に残されていることは光栄のいたりでした。
涙を流す女将さんを見つめながら、厳かな緊張に包まれている自分を知るのでした。


ーーーーーー後記ーーーーーー
九月頃から、この原稿を書いては捨て、書いては捨てを繰り返しておりました。
いろいろな縁が絡み合っているので、人に分かるように説明するのが大変だったのです。
自分の筆力では限界だな、と半ばあきらめて、一応分かるかな、というところでUPしました。
繰り返しが多かったり、無駄な話が多いですがご容赦下さい。
菱田家の話が多くて、和可菜の話や患者さんの話が意外と少なくなってしまいました。他人のことをたくさん書くのがためらわれたのと、菱田家の話は美術史上で周知の事実が多いので、書きやすかったのです。

とにかく書き上げよう、と思った理由はもう一つあります。
九月に女将(和田敏子)さんが亡くなりました。96歳でした。
昨年七月にお見舞いに伺ったのが最後となってしまいました。
伝え聞いたところによると、最後まで大きな病気もせず、まわりに大きな迷惑をかけることもなく亡くなられたそうです。

    謹んでお悔やみ申し上げます。
    和可菜で整体をさせていただき、本当にありがとうございました。

現在、磯谷整体 東京室は、文京区本郷の「旅館 鳳明館」となりました。
奇遇なことに、女将さんのお墓はここから歩いていけるところでした。
また女将さんが近くにいらっしゃる、心強く感ずる次第です。

鳳明館でも、もちろん柏室でも、沢山の方々の人生を感じられるよう、尽力してまいります。

2019年12月2日月曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その5

神楽坂に通い始めて数ヶ月たったころ、近くに東京理科大があることを知りました。
そこに近代科学資料館なる建物があり、菱田為吉さん製作の多面体木彫細工が常設されていることを合わせて知ります。
妻の曽祖父の為吉さんは手先が器用だったようで、20センチ角くらいの木材から多面体を沢山彫り出されたのです。知る人は知っている代物のようで、ネット上で取り上げている方が少なからずおります。

ある日妻と娘と三人で訪ねました。お参りのような心境です。
小さな資料館にもかかわらず、多面体細工をはじめ、為吉さんの資料がたくさん展示されていることに驚かされます。
この近代科学資料館は理科大の前身である東京物理学校の外観を復元した建物であり、為吉さんが通い、講師をつとめた時代のものであったので、その時代の象徴として為吉さんを取り上げているのかもしれません。

妻によれば、菱田家は親戚はもちろん兄弟さえ付き合いが途絶えていたようですが、ひとつだけ父親が懇意にしていた親戚があり、妻もそこだけは訪ねたことがあったようです。
展示資料の中に縁側で多面体を彫り出している為吉さんの写真がありました。それは妻がわずかに記憶する親戚の家だったようです。じっと見入る妻の胸に去来するものはわかりませんが、記憶をたぐりながら思いを馳せているようでした。

菱田家は優秀な一族であったようですが、残念ながら妻には受け継がれなかったようです。本人が言ってますので書いても怒られないと思います(笑)。子供の頃に妻の成績を見たお母さんは、ちょっとびっくりしてたようです。お母さんの家系も優秀だったらしく、勉強しなくてもできるのが当然と思っていたのでしょう。

義父の死後、伯母(義父の妹)さんらと食事をしたときのことも印象的でした。
二歳にして器用に箸を使うわが娘を見て、伯母さんは本気で心配し始めました。なにがそんなに心配なのか?と妻を驚かせたその理由は、『菱田家は器用貧乏だ。この子もそうなってしまうのじゃないか。』というものでした。
そういえば義父は文系ですが、遺品に自作スピーカーがあったり、若い頃は真空管とブラウン管を買ってきてテレビを作ったと話しておりました。
そしてわが娘、箸と自転車は早くからこなしてましたが、それ以外に器用さを発揮することなく中学生になりました。一安心です(笑)。


妻の縁に導かれたような話をもうひとつ。
わたしは千葉県松戸市で育ち、門下生修了とともに実家の最寄り駅「南柏」の近くに戻りました。
このあたりは松戸市・柏市・流山市が入り組んでいるところで、一日の中でその三市を行き来する人も珍しくありません。ローカルな話をすれば、国道6号もしくは旧水戸街道を北小金あたりから南柏まで通れば三市にまたがります。総称して東葛飾と呼ばれる地域です。
戻って最初に住んだのが流山市、操法室を借りたのが柏市、その後実家が松戸市から流山市に引っ越しました。
実家が引っ越して後、流山と菱田春草の縁を知ることとなります。

流山市は東葛地域で一番ローカルな印象を持たれておりますが、じつはかつては栄えたところ。なんと最初の県庁所在地です。正確には葛飾県・印旛県の県庁。明治維新とともに下総国舟戸藩主の本多家屋敷が県役所として使用されました。
江戸時代から利根川と江戸川の舟運を活かして遠くは東北からの年貢米が揚げられ、流山周辺で作った醤油やみりんを江戸に運んで栄えておりました。その流れで、明治期のこの地域にはいくつかの富商がありました。しかしやがて舟運の時代は終わり、この地域は斜陽をむかえます。

流山電鉄という鉄道マニアに支持される単線のローカル鉄道がありました。いえ失礼、現在もあります。乗ってみればわかりますが、東京からほどない距離にもかかわらず、ちょっとした時間旅行気分を味わえます。終点で降りると「近藤勇終焉の地」とありますが、それを盛り上げる雰囲気が皆無なため、ローカル感を後押しします。

東京ー千葉ー茨城を結ぶ常磐線。これは流山に敷かれるはずでしたが、舟運業者たちの猛反対にあったようです。なんと愚かな(笑)。もしも流山に常磐線が通っていたなら、東葛地域のバランスは今とは全く違ったものになっていたでしょう。つくばエクスプレスは存在しない、あるいは松戸側を通っていたかもしれません。日本最初の団地「光ケ丘団地」も、柏市でなく流山に建設されていたかもしれません。しかし常磐線が通らなかったからこそ、流山には昔の面影が残されました。

秋元家は江戸時代に酒造業を興し、のちにみりん業でさらなる財を成しました。江戸期には小林一茶と親交を深めた秋元双樹がおり、文化・芸術へ支援を重ねてきた家系です。
隆盛期の最後をつとめた秋元洒汀も同様に文学をたしなみ、文化・芸術への支援をされておりました。その一人が菱田春草です。代表作となった『黒き猫』も『落葉』も完成と同時に洒汀が買い取ったため、どちらもはじめは流山市にあったのです。その後細川護立のもとへ引き取られ、管理団体の永青文庫に収蔵され、どちらも国の重要文化財となります。

和可菜で整体を始めて翌年あたり、秋元家で春草の手紙を公開しておりました。秋元家は現在秋元由美子(画家)さんに継がれ、建物の一部は市に寄贈されました。その寄贈された建物内で、ある年手紙が公開されており、家族三人で観に行きました。
秋元さんはわたしたち(正確には妻と娘でしょうね)の訪問を大変喜んでくださいました。そして妻と娘を見つめながら、そこに春草の面影を見出そうとされているようでした。人というのは、亡くなってからも誰かの中にありありと生き続けるものですね。妻とその一族は、わたしの中でますます存在感を増すのでした。
手紙の中に弟唯蔵さんのお礼状がありました。春草への支援を感謝する手紙です。ふつう弟が兄のことでお礼状を書かないだろうと思いますので、兄弟の愛情と信頼を感じさせるものとして、わたしの中にのこりました。

そういえば妻のお母さんが亡くなる数日前、病床から無理して起き上がるようにしながら、
「みんな仲良くね」と再三仰ってました。
その場にいたのは妻のお父さんと妻のお姉さん、妻、私。いろいろあったのだろうと思わされたのでした。

(その6につづく)

2019年11月28日木曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その4

和可菜初日。
二人診ておしまい。
赤字ではないが黒字とは言えない。
そんなことより…、
自分はいま和可菜にいる。
心の中でなんどでもかみしめる。

すっかり陶酔してるところへ、
興味をもったお手伝いの方が整体を受けに来た。
整体が終わって帳場の奥に戻られた。
どんな感想を持たれたのかはわからない。
話を聞いた別の方がまた整体を受けに…
その話を聞いた方、たまたま女将さんを訪ねて来られた方が整体に…

こうして和可菜初日は、わたしの不安を忘れさせてくれるものとなったのでした。
しかし女将さんに会ってない。
女将さんに会えなければ、"和可菜に来た"のマイヒストリーは始まりません。


和可菜二日目。
女将さんが整体を受けに来られました。
「この間はうちのものがお世話になりました。」
最初に丁寧なご挨拶をいただき操法しました。

すでに八十も後半でしたが、呼吸に力がありました。幼少期は弱かったとのことですが、ていねいに体を使ってこられた跡がありました。
はっきりとした物言い、打てば響くような返事の早さ、なんとも爽快な方でした。
これ以降、和可菜閉館まで診させていただきました。
途中股関節を壊したときは時間がかかりましたが、しっかり回復されました。

「危ない」ということもありました。
わたしがそう感じただけですが、極端に力が衰えたことがあり、
「危ないです」と伝えたことがありました。
二日くらいは元気がなくなったようですが、その後また元気になりました。
「危ない」と言われたことで、いろいろ思い直しふっ切れたと仰ってました。
人の「生きる力」とは不思議なものです。


Oさんは和可菜で整体を始めて間もない頃にいらっしゃいました。
紹介なしでやってきた初めての患者さんです。
ホームページを読んで興味を持たれたとのこと。あまり話さないご婦人でしたが、よくホームページを読んで下さっているのがわかり、こちらもうれしくなりました。
きれいな背骨をしていて弾力もありましたが、少し過敏なものがありました。
上胸部の抜けたところに古い問題が感じられ、解消するのに数年かかりました。

Oさんがいらした次の和可菜の日、神楽坂に住むというOさんの妹さん夫婦が来室されました
妹さんの姓はFさん。そう、福岡講座のFさんと一緒。名が妻と一緒。ついでに言えば年がわたしと一緒でした。
和可菜への道筋をつけてくれた福岡のFさんと同姓。このことがわたしを勇気づけました。
名前が符合したからといって特別意味を感じない方ですが、不安を抱えて始めた東京室だったので、この始まりの時期にFさんの名前は特別な力を与えてくれるのでした。

引き続きOさんのお母さん、息子さんが来室され、和可菜で整体を始めたことに迷いが消えていきました。
えらく優秀な体の若者だな、と思ったら息子さんは東京大学で物理を学んでいる学生でした。大学で鳥人間コンテストの活動をしているとかで、その後設計を担当されたりしておりました。これは唯蔵さんのご縁かな、とあとで思ったものです。
(菱田唯蔵:東京帝国大学教授 航空工学博士 菱田春草の弟 妻の曽祖父菱田為吉の弟)


その後Oさんのお宅に何度か往診に伺いました。
驚いたことに、そこは目白の永青文庫のすぐ近くでした。
音羽で永青文庫を想った日々が思い返されます。往診の道々のぞいてみると、雑木林のなかに古びた建物がありました。その風情になおさら郷愁を掻き乱されます。大家さんが磯谷(いそや)さんだというOさんのマンションの前に立つと、ここでも懐かしさが湧いてきます。東京に住んでいる頃はバイクで移動していたこともあり、このあたりは数え切れないほど通りました。
何度目かの往診のとき、それにしてもなにか…………と、わたしはOさんのマンションの前で考え込みました。

「あ!」
思わず声が上がりそうになりました。いえ、声が上がりそうというか、全身がパッと爆ぜるような衝撃でした。通りの反対側にあるマンションは、かつてわたしが何度も訪ねた場所だったのです。二十代前半、公私にわたってお世話になった社長がおりました。そこはその社長のかつてのお住いだったのです。思い出して驚いたというか、あれほどの日々を忘れていた自分に驚きました。15年ほど経っているとはいえ、そこは何度も、いろいろな思いを抱えて訪ねた場所なのでした。
整体を学び、門下生生活という濃密な時間を過ごし、整体にかけた人生に入ったわたしには、その前の出来事の多くがはるか昔のことのようになっていました。そしてそのことが時に人生の齟齬のごとくわたしに迫っていた時期でした。自分の中で不協和音が鳴り止まない。昔の知人に会っても、わたし自身が変わってしまったせいか、昔のように噛み合わない。そんな時期です。

    目白通りの向こうで青春の残像が息を吹き返す。
    目白通りのこちらで整体指導者として背負ったものが脈打つ。

過去と現在の断絶を感じていたこの時期に、通りの向こうとこちらにそれを象徴する二つの建物が対峙しておりました。

    さらに背後には永青文庫。
    向かいのマンションを向こうに降りたところは、
    妻と出会った井本整体音羽道場があったところ。
    過去も現在も、今この場所で当たり前のように渦巻いておりました。

それがひとつの啓示となりました。
変わらない自分と、変わってきた自分と、今ひとしくあるという当たり前の事実です。
不確かになっていた自分に気づき、再び確かになっていく自分を得られた瞬間。それは救いでもありました。
こんな経験ある方、結構いらっしゃると思います。
Oさんが呼んでくださったのか、春草が呼んでくださったのか、いずれにせよ、得がたい瞬間に感謝するのでした。

(その5につづく)

2019年11月25日月曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その3

三年後、門下生修了。
門下生の生活を書いてるともう終わらなくなるので、ここではしょります。すいません。
井本先生より「開業しなさい」のお言葉をいただき、晴れて郷里に帰りました。


開業する喜びはもちろんありましたが、やっと妻と暮らせる喜びと安堵ははかり知れないものがありました。離れていた期間のせいか、今でも妻と生活しているだけで幸せがあります。
さて、一応結婚式をすることになりました。
このときの妻のお父さんのスピーチが忘れられません。

「若い頃は『春草がなんだ、俺は俺だ』と思ってましたが、最近はそこまでは思わなくなりました………。」
そう言って春草の画集をプレゼントしてくださいました。
(春草は義父の曽祖父の弟)

菱田春草は兄の為吉、弟の唯蔵の支援と愛情を受けながら大成した方です。より正確に言うならば、大成しかけたときに夭逝しました。
東京美術学校(現在の東京芸術大学)校長を追われた岡倉天心は、「日本画に革新を」という思想のもと、共鳴する者たちと日本美術院を組織します。日本美術院は院展を開いているところ、というのが一般的にはわかりやすいでしょうか。
東京美術学校ですでに講師をつとめていた菱田春草、横山大観、下村観山らも職を辞し、日本画の革新に挑みます。
輪郭線を省いた日本画。それは当時ではありえない思想だったようです。輪郭線がないために境界部分がどうしてもぼやけてしまう「朦朧体」と呼ばれるこの技法。「朦朧としているから」という侮蔑が当時込められていたようです。


ここでちょっと脱線いたします。
「解体新書」をご存知でしょうか?
日本史の授業に出てくる杉田玄白の訳書ですね。日本に西洋医学が入ってきたという歴史の1ページです。
原著の図版には輪郭線がありませんが、訳書では輪郭線を用いて描かれております。江戸期における絵画の考え方として、輪郭線の存在は確固とした地位を持つものだったようなのです。
もう少し補足すれば、絵画表現と人々の感性は相互作用しながら、認識と表現の歴史を潜在意識下に刻みます。
未開の部族に絵を見せたときにどのように理解するか?
といった実験が人類学上あるように、われわれは気づかないうちに二次元表現の技法から認識方法を方向づけられ、感性を育てられております。
ちょっと古いですが、漫画「アキラ」が出たときにその表現の斬新さが話題となりました。今まで見たことのない技法から、新しい感性が想起されることは、文化・芸術ではよくあることです。というよりも、そういうことに挑戦しているのが、文化・芸術です。自然科学もかつては感性を育てたのでしょうが、現代はもう発明に偏り過ぎでしょうね。科学に実利しか見えなくなってしまったので、「人文社会学部はいらない」といった発言が出てくるのでしょう。一番わかりやすい文学の意義でさえ、多くの人々に分からなくなってきたのが現代だと思います。


戻ります。
思想家であり、画家ではない岡倉天心がどのような思考の軌跡を辿ったのかは浅学のため知らないのですが、江戸期日本画の技術継承から一部脱却をはかったことは確かです。このハードルの高さがどの程度のものであったかは、当時の文化史・風俗史とともに理解しないといけないため分かりかねますが、職を辞してまでという点から、かなりのハードルであったことがうかがえます。

個人的には春草はもともと思想的跳躍に挑む人であったように思えます。
21歳の東京美術学校卒業制作『寡婦と孤児』では、乳飲み子を抱きながら途方に暮れた寡婦のそばに、主をなくした鎧と刀を描いて寡婦となった今とこれからを暗示させます。『水鏡』は美しい天女を描きながらも、いずれ老いゆく姿を空想させます。

『落葉』では地面に散らばる落ち葉であると同時に、舞い降りる落ち葉にも見えるという視覚効果を使っています。同時には存在し得ない二つの様態。これはロジックとしてはエッシャーのだまし絵と同じものです。観る人の認識を揺さぶり、現実感を奪うのです。ただの雑木林を描いているにもかかわらず、幻想の世界へ引き込まれてしまうのはこのためです。「朦朧体」という技法だからこそ成し得た究極的な絵だと思います。

能書き書いてますが、絵のことは詳しくありません。しかし読み解ことしたときに、春草ほど意味を見せてくれる画家も稀だと思います。こうした思想上、認識上の挑戦が、わたしをいたく刺激するところでもあります。
また凡人は技術を磨いているうちに、技術を行使することしか考えなくなるものですが、春草は技術を磨いてなお技術に溺れることなく、それを使ってなにを生み出せるか、という可能性と課題を十分に抱いていた非凡な人と言えます。こうした生き様に、整体をやっているわたしは憧れと戒めを感じたりします。

また日本美術院を創設した方々に僭越ながら共鳴しています。
余談ですが、横山大観が整体創始者・野口晴哉氏の整体を受けていたことは有名な話です。横山大観が整体のどこに共鳴したのかはわかりませんが、「朦朧体」の確立に挑み、『無我』といった挑戦的な作品を打ち出した大観が、整体の思想的挑戦に共鳴していたなら、うれしいことです。


日本美術院は朦朧体の作品を次々と生み出し、海外での展覧会に打って出ます。おおむね好評を得られたようで、日本でも次第にその地位を確立してゆくこととなります。春草の死は、そんな矢先のことでした。
明治天皇や流山の富商・秋元酒汀が春草の作品を買い取るようになり、春草の生活も少し楽になり始めた頃から、眼病を患い目が見えなくなっていきます。『黒き猫』は亡くなる前年の調子のいいときに、一週間足らずで描かれた作品です。『黒き猫』は秋元洒汀に引き取られ、『落葉』とともに収蔵されることとなりました。


夭逝した春草。兄弟の悲しみはどれほどのものか、伝え聞くものはなにもありません。
自身も絵がうまかったけれど、弟の画力を見るにつけ、為吉さんは弟を支援することに決め、自身は学業をおさめます。大正天皇の教育係をつとめ、東京物理学校(現在の東京理科大学)の講師となります。春草の弟唯蔵さんも学業をおさめ、航空工学博士となり、東京帝国大学(現在の東京大学)教授となりました。
為吉さんは子、孫世代へも芸術への喚起・奨励をされていたようで、そのことがどうやら菱田家に暗い影を落としたようです。義父は為吉さんの直系にあたりますが、苦い思いがあるのか、そのあたりのことを家族に話さなかったようです。

義父が亡くなった後に、義父の妹さんが
「春草の描いた仏壇の扉があったはずだけど…」
と教えてくださいました。それは為吉さんが作った扉に春草が絵を描いたという兄弟の合作でした。妻も妻のお姉さんも記憶になく、いつどのように手放されたのか今となっては分かりません。後に代々木で春草展があったときに展示されているのを見つけました。それは扉だけとなっておりました。扉はなにも語ってはくれませんが、お世辞にも保存状態が良いとは言えず、傷みの目立つその様に来し方を想うのでした。丁寧に保管されてきた文化財のなかであれば一層のこと、それは目立つのでした。義父が最後にこれを手にしたのはいつのことだろう、それはどんな状況だったのだろう。それを思うと、なにか苦いものが口の中に広がるのでした。

そんな義父が結婚式のときに前述のスピーチと春草の画集をくださったことは、わたしにとって意味深いものとして響きました。門下生になる前に入籍だけすることを許してくださった義父です。おそらく整体でやっていく道のりを慮ってくださったのだと思います。一族に絵の道を支援された春草と、その一族の残滓に翻弄させられ、もろもろの精算を負った義父には、なにかに人生を掛けることの価値と危険が骨身に沁みていたのだと思います。
美術史の上では、春草は芸術のためにしか絵を描かなかったとされていますが、義父によれば生活のための絵も実は描いていたとのことです。ことの真相はわかりませんが、義父としてはわたしへの箴言の意もふくめていたのだと思います。

『黒き猫』は春草の孤高さのイメージとよく重なる作品です。
わたしは春草そのものだと感じていますし、そう感ずる人は多いと思います。
睨むでもなく、微笑むでもなく、ただただ意思をたたえる黒猫の目。
無口で頑固であったという春草の静溢さと心のブレなさそのままが描かれていると感じています。
この絵に魅入るようになったのは、開業してからですが、この佇まいが自分にもほしくて、操法室の玄関にカラーコピーを額に入れて飾っておりました。


話は戻りまして和可菜の玄関にある黒猫と和服美人の絵。
こちらは伊藤深水作ですが、同じ黒猫が玄関にいることはわたしにとって気の高まるものでした。
ちなみに和可菜ではメメちゃんという黒猫が飼われていたこともあるそうです。暗闇で目が二つ光っているからメメちゃんだそうです。

和可菜は女将(和田敏子)さんの姉・木暮実千代(和田つま)さんが買った建物でした。
未亡人となり、木暮さんのつき人をつとめていた敏子さんの将来を思い、実母登喜さんが木暮さんに買わせたというのが真相だそうです。女一人で生きていくために旅館を、ということです。

敏子さんは生まれる前からの約束で、和田家の本家に養女に出されました。実子に見せる演出を経ていたので、兄弟同志でさえその事実を知るのは成人して後だったそうです。本家は牛乳屋で財を成していたけれど跡継ぎがない、ということで敏子さんを迎えたわけですが、戦争もあり、大人になる頃には廃業しておりました。
じつは敏子さんの実父は本家の長男でした。本来なら跡を継いでいたはずですが、放蕩が過ぎて追い出され、下関に流れて居をかまえました。そんな父親のもとで育った木暮さんは東京に出て女優となり、生まれてすぐ東京に出されていた実妹と人生を重ねるようになるのですから、不思議なものです。相性もよかったようで、亡くなるまで密な交流が続いたようです。

和可菜は木暮さんの女優としての全盛期の収入、育てられなかった実母の思い、本家が衰退し、さらに未亡人となった敏子さんの寄る辺なき身の上から生まれました。
数奇な人生を歩まれた女将さんはどんな人なのだろう?
基本的に人物や人生に興味があるわたしなので、女将さんに会うのを楽しみにしておりました。

肺を強くする方法いくつか

コロナ騒ぎを踏まえ、肺を強くする方法をいくつかご紹介します。 ■肘湯、蒸しタオル。 【肘湯】 肘から先を熱いお湯につける部分浴。 46度程度。測らなくてもよい。火傷しない程度に熱いと感じる温度が目安。 時間は6分前後。 途中で差し湯を一回して冷めすぎないようにする...